赤い月光、前兆
今夜は月が赤いのだろうか。だって、目の前の人間の髪の毛は、こんなにも赤い。
月光に照らされているはずであろうに、青白く輝くことも無く、そればかりか紅蓮の炎のごとく燃え上がりそうに赤い。肌がうっすらと月光によって白く焼かれているからだろうか、うなじの白さと髪の毛の赤があまりにも、くっきりと浮かび上がっていて、恐れさえ抱き、私は息を止めた。
「赤」に囚われた、どうしても視線を離せない。
彼は、はぁはぁと荒い息遣いをしているというのに、私は、息を潜め、じっとその様子をただみつめている。
ごくり、唾を飲んだ。
しっとりというよりも、滝のように流れ出ている汗が、鍛え抜かれ、肌蹴た上半身を伝って落ちる。木刀が振り上げられ、振り下ろされるたびにビュンビュンと風を叩き斬る音があたりに響き、私の鼓膜を震わして、二の腕の筋肉が、何か別の意思を持った生き物のように動いていた。
「さっきから、うぜぇんだよ。さっさと出て来い」
その瞬間、心臓が止まるかと思った。
木刀の動きは何事も無かったように続いていた。だから、もしかしたら幻聴かもしれないと思えただろうか。
その、低く、殺気さえ纏った雰囲気の声音でなかったならば。
「申し訳ありません、阿散井副隊長」
おずおずと出て行くと、副隊長は、私をギッと睨みつけるようにして見た。
灯火をつけず、月明かりだけの仄暗い訓練場の中、それだけが鋭く光を発する黄金の細い瞳に射抜かれて、凍りつく。ビュンビュンと風を切る音が消え、ドクドクと騒ぐ私の心臓の音だけが煩い。
「……なんだ、か」
そう口を開いた瞬間、僅かばかりその瞳が柔らかくなったのをみた。柔らかくしようとして、柔らかくしたような、少し歪に形となった瞳に、それでも少しだけほっとする。副隊長は振り上げていた木刀を下ろした。切っ先が、床について、とんと音をたてた。ふぅ、と乱れた息を戻そうと長い呼吸を繰り返した副隊長は、こちらをむいて、笑う。
「悪いな、怖がらせて。木刀振ってると気が立ってくるからよ」
首筋に手を当てて、困ったように眉間に皺を寄せて。先ほどまでの雰囲気とまるで違うその様子に、また思いがけず謝られたことに驚いて、私は頭を下げた。
「いえ、鍛錬の最中に邪魔したのは私ですから……。あの、申し訳ございませんでした」
「あぁ、いいって、ほんと。堅苦しいのは勘弁してくれ。それに、上司が居たら入りにくい気持ちも分かるし。まぁ、だから毎日こんな時間選んでるんだけど、珍しく人が来たなぁ」
その言葉に、この人はあんなにも化け物じみた強さを持っているのに、鍛錬を毎日かかさぬのか、と思う。あの強さ以上の力を欲する理由が、私には、はかりかねた。
「こんな夜更けに、どうしたんだ?」
何を言えば良いか分からず黙っていた私に、阿散井副隊長は言った。
「なんか眠れないような心配事でもあるのか?」
その言葉に、私は絶句した。
粗野で、がさつで、大きな声というより怒鳴り声をあげ部下を叱責し、口よりも手、いやむしろ足が出ることが多い乱暴者。朽木隊長を筆頭とする六番隊には、あまり似合わぬ異物者。なんとなく、私の中での阿散井副隊長に対する像というのは、こんなものだった。平隊士の自分にとって「副隊長」という人物はあまりにも遠く話す機会もあまりなかったから、第一印象がそのまま彼への評価へと繋がっていたのだろう。
だから、副隊長が私を心配するようなことを言うのが信じられなくて、少し固まってしまったのだ。
ああ、そういえば、ただの一平隊士である私の名を、この人はいとも簡単に呼んだ。
「……いえ、あの、大丈夫です。妙に目が冴えてしまっただけで。その、……身体が疲労すれば、自然と眠れますから」
「へぇ、だから鍛錬しに来たのか。ふぅん。で、俺が居たからびっくりして隠れちまったと。あぁ、怖くて隠れたのか?」
いいえ、貴方の「赤」に囚われていたのです。
冗談めかして言った阿散井副隊長に、私は心の中でそう呟いた。勿論いえるわけが無いから、その言葉は口に出さない。
「そんな、怖いなんてこと……」
「わかってるわかってる。ちょっとからかいたくなっただけだよ。冗談の通じない奴だな」
「……すいません」
私が謝ると、阿散井副隊長は、苦笑して見せた。
「さっきも言ったけど、そんなに堅苦しくすんじゃねぇよ。そりゃあ、勿論下のものは上を立て、上のものは下を守るってぇのは組織の上で大事だぜ?でも、そんなに萎縮されるとどうも勝手がわかんねぇよ。別に取って食ったりはしねぇから」
流魂街の、しかも治安が悪い地区出身の、怖い人。
いつの間にかに、そう色眼鏡越しで見てしまっていたのだろうか。私は大して本人を知りもせず、知ろうともしないままにそう思っていたことを恥じた。
急速に緊張が解かれていくのを感じる。
そして、この人を知りたい、という欲求がむくむくと湧き上がっていくのを感じた。それは多分、幼い頃に『あの子と友達になりたい』と思った気持ちとほぼ同じものだった。
純粋に、何のしがらみも無く、相手と繋がりたいという欲求。そんな気持ちを久しぶりに感じた。
「で、お前これからどうすんだ?もう大分遅いぜ?」
はっと時計を見れば、もう午前3時を過ぎていた。いい加減眠らねば、明日に響いてしまう。
「確か、お前明日魂送だろ?」
阿散井副隊長の言うとおりだった。こくりと頷くと、「じゃあ、やっぱり寝たほうがいい。まだ目、冴えてんのか?」と心配そうに尋ねてきた。そういわれると、特に身体が疲労したわけではないのに、なんだか不思議と眠れる気がした。
「大丈夫です。隊舎に戻ります」
「そうか。じゃあ、送っていくぜ。俺も鍛錬終わり」
肌蹴ていた死覇装を直し、持っていた木刀を担ぐ(自前の木刀だったのか)。驚いた私に、「遠慮すんなよ」と言って、ぐしゃぐしゃと頭を撫でた。
「ほら、行くぞ、」
ぽんと肩を叩かれた拍子に足が出る。私は、「はい」と返事をして、前を歩き出していた副隊長に追いつくように歩を進めた。
副隊長の髪が、歩くたびに揺れる。
赤だ。
恐れさえ抱いた紅蓮の炎の如き「赤」は姿を消し、私はただただそれを、美しいと思った。
それは、囚われる感覚よりも、見惚れる感覚に近い。
確かな欲求が、私の中で蠢いていた。